近時刑事裁判(少年事件を含む)を見ていると、被害者の救済が叫ばれ、マスコミもこれに呼応して、刑事裁判の刑罰は、益々重罰化(少年は低年齢化)に向けて法改正がされている。最近も交通事故に関する法改正が実現した。刑事弁護に携わっていると、裁判所の刑事「判決」も数年前から「重罰化」が一段と進んでいるとしか思えない。量刑が重くなり、執行猶予が少なくなっている。これは正に「被害者の救済」が叫ばれた頃と時期的には一致する。更にこの度、直接刑事裁判に被害者側が参加し、検察官と肩を並べて裁判の一当事者として参加し、裁判長の許可を得て直接証人や被告人に質問することが許される事になった。意見陳述も勿論出来る。

 しかし犯罪被害者の救済と刑の重罰化は必ずしも一致するものではないと思う。犯罪被害者の救済は、先ずは犯罪者発見・逮捕から始まり、その被害は国家の責任でも十分救済されるべきである事に異議はない。勿論犯罪者に対しても厳しく被害者救済を求めるのは当然である。しかしこれを「刑事法廷」の場に直接持ち込むことと同じではない。紀元前のハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」の思想、即ち報復感情を今そのまま持ち込むことは正しくないことを忘れてはならない。人類はその後「国家・社会」が私刑を禁止し、国家が刑罰権を独占し国家がこれを課すことになった歴史の発展を否定してはならないからである。国家的刑罰の正当性は、(単に犯罪者への報復から)犯罪者が法共同体に対し、法的平和状態を乱したことに対する、原状回復(方法は多様)を負担させることと犯罪予防思想と言われ、これも受刑者の人間性・良心等に期待するところが大きい。この面で「人権」尊重等とも繋がる。罪を罰して人を罰せずである。かかる刑の思想は永年の歴史に支えられた「文化」の発展形態の一つであろう。我国でも今までこの「文化」が発展してきた。昨今の刑の重罰化は、発展してきた「人類文化」の否定に繋がりかねない。被害者を法廷に参加させ報復感情優先の弁論等を認めることは被害者の真の救済でもない。

 被害者の感情が発露させるべき場や、犯罪者と話す機会がないというなら、それは刑事法廷と別な新しい制度を構築すべきであって、刑事法廷を安易な被害者の感情発露の場にすることは、百害あって一利なしと思う。