[特集 オリンピックと私]
この歳になると、オリンピックが待ち遠しいと言うことはありませんが、いざ始まると、大抵は観入ってしまっています。お祭り好きな性分なのだと思っていますが、単にテレビ好きなのかも知れません。今は、そうでもありませんが、チャンネルの選択肢が少ない時代では、番組が占領されてしまっていましたから…。
もう40年前になる東京オリンピックでは、聖火リレーの見送りに動員されたり、授業を潰してテレビ観戦したり、当時は人気が無かったためチケットを入手できたサッカーを観に行ったり、それも運良く日本が勝ち残っていて…。中学生時代の思い出です。期待されていたマラソン選手が思うような成績を残せず悲惨な道を選んでしまったニュースに、「がんばれ」と応援することの意味を考えさせられた覚えもあります。
かつてのベルリンのように「国威の発揚」に利用されたり、モスクワのように米国の大統領選挙の関係で国際政治の波に揉まれて選手が涙をのんだりということも無くなってきているのかもしれません。しかし、代表選手の選考を巡っては、その種目に取り組む選手の思いとは別の色々な確執があるようです。豪州の一度は選考された選手が辞退に追い込まれた報道などを見ると、スポンサーやメディア産業の影響も窺われ、興を削がれます。商業主義化を見直す意味で、原点のアテネで開かれるそうですが、普段馴染みのない種目も含めて、世界水準の選手が競う姿を見るのは楽しみです。
「テロ抑止戦争」や「国を愛する心の育成」に利用されないか心配することなく純粋に楽しめればいいのでしょうが、状況は厳しいですね。オリンピックの無事を祈るばかりです。