[特集 オリンピックと私]

 
 スポーツは嫌いではないけど、自分がもっとも好む競技がオリンピックの種目にないということもあり、4年にいっぺんの大騒ぎという程度の興味しかわかない。日本人であれば日本を応援し、日本の勝敗に一喜一憂しなければいけないという雰囲気に違和感を覚えないわけでもない。最近では非国民とでもいわれそうだが。

 日本の選手やチームが勝ち進むのはうれしいし、その戦いぶりに素直に感動することももちろんある。しかし、日本人に限らず、人は国同士が戦うことになぜあんなに興奮するのだろうかということが不思議だ。メダルの数を競い合うのは愚の骨頂にも思える。

 だからというわけではないが、これまで最も印象に残ったオリンピックのシーンも競技や試合そのものではない。1968年のメキシコオリンピックの陸上男子200メートル決勝の金メダルと銅メダルの受賞者が、表彰台の上で頭をややたれて拳を高くかかげたシーンがそれだ。当時中学生だった私には、二人のアメリカ黒人選手の行動の意味はよくわからなかった。同じ年の4月にはマルティン・ルーサー・キング牧師が暗殺されて、黒人の公民権運動をめぐってアメリカ中が大騒ぎになっていた時代だった。スタジアムの空に掲げた拳の意味が、世界に向けて自国での人種差別の現状を非難し、差別撤廃を要求する強い意思表示だったということは後になって知った。

 スポーツが政治と無縁ではありえないことはオリンピックの歴史自体が証明している。もし、アテネでイラン(人)やアフガニスタン(人)とアメリカ(人)が何かの競技で争ったなら、イランやアフガニスタンの方を応援してしまうだろうけど、それはスポーツ観戦の仕方として不純なものなのだろうか。