「裁判員制度」については皆さんも耳にされたことがあるかと思いますが、2009年5月までに実施される予定のこの制度では、これまで裁判官だけで判断していた刑事裁判に一般国民が参加し、有罪・無罪の認定や量刑の判断を、国民が裁判官と一緒に行うことになります。多くの方にとって刑事裁判は、ニュースやドラマや小説の世界だけの話だったかもしれませんが、裁判員制度導入後は、裁判員の任務は国民の義務とされ、20才以上の選挙権を有する国民であれば誰でも裁判員になる可能性があるのです。
具体的にあなたが裁判員になった場合について想像していただければ、その責任の重さを実感されると思いますが、有罪と認定すれば無実の人を罪人にしてしまうかも知れませんし、裁判員制度の対象となる事件は、殺人や強盗致死傷などを含む重大事件ですから、量刑として死刑を選択する場合もあるかも知れません。
「裁判員制度」導入に向けての整備は着々と進んでいます。つい最近、刑事事件の第一回公判期日前に争点と証拠の整理を行う「公判前整理手続」が刑事裁判に取り入れられることとなり、また、「適正迅速で分かりやすい公判審理を実現するための規則」も、新たに加えられました(以上、2005年11月1日施行)。これらの改正はいずれも「裁判員裁判」を見すえて、いち早く導入されたものです。公判前整理手続は、裁判員制度で予定されている連日開廷を実現するために必要ですし、多くの場合刑事事件について素人である国民が、裁判に参加するためには、分かりやすい公判の実現のための規則を整備することが不可欠だからです。
裁判員制度を導入する一番の根拠は、国民主権、民主主義という理念を司法に実現すべきとの要請です。もっとも、これまで裁判に国民が参加しない仕組みとなっていた重要な理由の一つは、正にこの民主主義を裁判に直接及ぼすべきではないとの考えだったのです。あらゆる制度が民主主義の理念に立脚すべきことは極めて重要な憲法の要請ですが、同じく憲法の標榜する人権保障という観点からは、民主主義を直接及ぼすことが必ずしも望ましくない場面もあるのです。例えば、特定の事件についてマスコミ報道がエスカレートして、被告人の凶悪さ、被害者の受けた被害の悲惨さ等がことさらに誇張されて伝わった場合、この被告人に対しては極めて重い重罰で臨むべきとの世論が盛り上がるかも知れません。信仰している宗教、国籍、職業等の点で、被告人が、一般人から理解されにくい特殊な少数者的立場にある場合は、被告人に対する共感や同情などは生まれにくく、被告人に対する批判的意見はより強まるかも知れません。そのような場合においても、世論や国民一般の感情から距離を置き、客観的、冷静にこの被告人にはどの程度の刑罰がふさわしいのかということを判断することが司法には求められているのです。悪いことをした人であっても、その行為にふさわしい程度の刑罰を与えられるべきであり、それを超えて過剰な刑罰を受けない権利が保障されているのです。