私が「朝日訴訟」と呼ばれる生活保護裁判に従事したのは、弁護士になって2年目の1957年から67年までの10年間でしたから、今から振り返ると、実に半世紀近くも以前のことになります。
この裁判は、朝日茂さんという貧乏な結核入院患者が、自分たちにも国民の一人として「人間らしく生きる」権利があると国(厚生大臣)を訴え、最後まで闘い抜いた事件として全国的に知られることになりました。事実この裁判運動の広がりによって、国の生活保護行政は大いに改善されることになったのです。
このような朝日訴訟闘争の盛り上がりもあって、わが国戦後の社会保障政策は、高度経済成長の波に助けられつつ、70年代末頃まではひたすら”右肩上がり”の充実向上路線を歩んできたのですが、同年代半ばからの石油ショック等による経済状況の暗転や、80年代に入って「戦後政治の総決算」を唱える中曽根内閣の登場などによって、以後は”右肩下がり”の傾向に転じることになりました。
その下降傾向に拍車をかけたのが、2000年前後からスタートした橋本・小泉内閣の「新自由主義」路線だったわけです。かれらはアメリカに追随して、わが国に市場原理・自由競争・規制緩和等の新政策をもち込み、戦後50年で築き上げられてきた経済・社会秩序を揺さぶり”破壊”するとともに、「財政再建」「構造改革」の名の下に、毎年2200億円もの社会保障予算の削減、それによる生活扶助基準の切り下げ、老齢・母子加算の廃止などの施策を次々と強行し、他方では、企業の国際競争力をつける等の口実で、労働時間規制を事実上撤廃するとか、非正規雇用者や派遣労働者の雇入れを自由化して、働く人達を低賃金や解雇の危険にさらし続けるという方策をとってきました。その結果、ワーキングプア等の新たな貧困層を生み出すことになったのは広く知られるところです。
このような「新たで、深刻な貧困問題」の登場の中で、人々の脳裏に甦ってきたのが嘗ての朝日訴訟の闘いであったわけでして、昨今の先の見えない経済・労働・社会保障の停滞状況の中で、何とか脱出の手掛かりでもというのが、「朝日訴訟闘争の再登場」の背景・要因であったろうと私はみております。
しかし、今日の貧困・格差の問題は、すでに述べたように、単に働けずに貧困となった人達への生活保護(社会保障政策)の問題だけではなく、働きながらも低賃金や首切り等の理由で貧困状態に陥り、「健康で文化的な最低限度の生活」が営めなくなっている多くの労働者や自営業の人達の問題(労働政策・経済政策)でもあります。「派遣切り」で会社を辞めさせられた若い労働者が、「会社は俺達をモノとしかみていない。一人の『人間』として扱ってほしい」と、怒りを込めて訴えていたことが、とても印象的です。
ですから、このような広汎で、深刻な貧困・格差の実状を打開し、解決への糸口を見出していくには、朝日訴訟闘争の経験も一つの手掛かりではありましょうが、もっと視野を広げて、多数の勤労者階層の人々とも連帯し、政府や経済界に対して経済政策や労働政策・社会保障政策の転換を迫っていくという姿勢の下に、取組んでいくことこそが何より大切かと考えている次第です。